私はアイドルマニアである。厳密にはポートレートマニアであるが、日本においては、アイドルを被写体にした作品によいポートレートが事実多いので致し方ないと言える。
芸術とは個性的表現の確立と私は考えるが、そのためにはアイディアが不可欠だ。書いているうちに個性が出るという悠長で生易しいものとは思えない。人とはちがう何かをアピールしなければならない。同じものを作るようでは、生産であって制作ではないからだ。人とはちがう何かをアピールするためには、人とはちがう視点をもたなければならない。ちがいがわかるかどうかとも言えよう。
私はアイドルマニアであるが、アニメ世代でもある。日本アニメが海外では近年になってアートとして確立された。昔からあったのに今頃になってアートになった。
私は独自の画法を開発しようと8年もの歳月をかけているが、当初から人とはちがう視点、個性的表現と思われる何かがわかっていたわけではない。自分が美しいと考える独自の基準が人とはちがうと気づいた6年前が、私の本来の個性的表現の始まりであり、その実現が苦しみの始まりでもあった。
日本アニメにおける髪色の表現は独特である。アニメ世代である私は、ポートレートをコンピュータでさまざまに分解していく作業の中で、被写体の髪にも色があることに気づいた。一般に多い黒い髪の毛は光を反射するとき、周りの色を返すのだ。周りの色は風景の色である場合のほかにも、太陽光の色のちがいであったりもした。そして、その髪の毛が返す色が実に美しい色なのだ。その色は人工で作ろうとして作れる色ではない。被写体の髪の個性の発露でもあるのだ。その意味で赤毛なども被写体の個性の発露と言えよう。
日本アニメにおける肌色の表現は独特である。ある意味、芸術とは対極にある性質かもしれない。なぜなら没個性であるからだ。ある均一な肌色に統一され、若干のちがいはあるにせよ、模範的な化粧の統一性に似た美しさを固持しようとする。人間の肌は本来多種多様な姿をもっている。色のほか、しわや肉付き、ほくろや吹き出物など、醜くなる方向にのみ個性を発揮する。しかし、醜くなる方向のみの個性に背を向け、被写体の没個性となっても化粧のように美しい肌の表現を、私は迷わず選択した。美しい肌を表現するためには、影を減らすことと私は考えた。これがこの画法の名前の由来でもある。まるで日本アニメのような肌色のポートレートが完成する。トレースされたイラストでは同じような肌色の表現を見たことはあるが、それは機械的に均一か一方向のグラデーションによる肌である。それはそれで美しいが、すでに社会的に認知されているため、私の個性的表現としてはもう使えない。私の画法では影を減らすことに重点を置いているので、トレースされたイラストのような機械的な発色をもたない。
こういった個性的価値観を土台にして頭の中である程度は形になっていた理想の表現方法を目指していたが、髪の表現と背景の色で望む表現ができないでいた。2006年4月末になって髪の表現に目覚しい進歩があり、以前の仕上がりとはまったくちがうものとなった。これはまさに突然発見した新しい表現手法の導入によるものである。したがって、残る課題は背景の色表現のみとなった。
posted by Issameh(イサメ) at 15:16|
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